恩寵の扉が開くまで part2

(1)フルーツ断食リトリート

ハワイでのリトリートによって、再びフーマンに対する深い信頼を取り戻す事が出来た。

帰国後はフーマンのサジェスチョンに従い、ハワイリトリート参加者を中心とした少人数のリトリートを毎月行った。

これは「フルーツ断食リトリート」といい、数日間フルーツのみを食しながら行うリトリートで、フーマンのガイドに基づいている。

フルーツ食によってより強力に浄化を促し、かつ、より高次元の繊細な波動に開くことを可能にしてくれた。

ただ静かに坐るだけで、比較的容易に神聖な次元を思い起こす事が出来たのである。

フーマンという肉体の存在はなくとも、フーマンのリトリートを受けている時となんら変わりのない恩寵のエネルギーが降りてくるのには驚いた。

これは毎回フーマンと連絡を取りながら、フーマンの祝福の下で行われた。

だから、当初はフーマンが意図的にエネルギーを送り込んでいるのだと思い込んでいたが、だんだんとそれだけではない事が解り始めた。

例え小さくとも自己の光を拠り所とする人々が集まれば、そこには大きな光のフィールドが生まれ、恩寵が降りて来るのである。

キリストは、「二人または三人が、私の名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18-20)という言葉を残している。

OSHOもよく同じ事を述べているし、四国霊場を巡るお遍路さんは、空海との「同行二人」を励みとして巡礼をするという。

しかし、実際にキリストやOSHOや空海がいちいち我々の動向をモニターしてエネルギーを送り込んでいる訳ではもちろんない。

キリストやOSHOや空海への限りない信頼が、自己の内側の光である真我(IAM)を目覚めさせ、それに呼応して恩寵が降りてくるのである。

あるいは、この真我(IAM)こそがキリストやOSHOや空海に出逢う場所といっても良い。

そもそもキリスト教の父なる神の名はエホヴァ、私は在る(IAM)を意味する。

フーマンも、「この場所にいるのが私ではない。肉体的にあなたの側にいなくとも、わたしはいつもあなたと共にいる。」と私に語っている。

だから当初は、フーマンの写真を掲げフーマンの名の下にリトリートを行ったらどれほど素晴らしい結果が起こるだろうか!と考えた。

そこで何度もフーマンの写真を掲げて瞑想をしたい旨を伝えたが、O.Kが出る事は遂になかった。

しかし後から振り返ってみると、O.Kされなかった事で新たなリトリートの土台が生まれ始めていたのである。

それまでのリトリートでは、「悟った人」を中心に探求者達が集うという形式になんの疑いもなかった。

しかし、このフルーツ断食リトリートはリーダーが不在なので「自主リトリート」とも名付けたが、外側の肉体を持ったマスターに頼る事なく、ひとりひとりが自立した個人として集い、内在する究極のマスターと出逢う新しいリトリートとしての型が出来上がるきっかけとなった。

キリストやOSHOや空海が真理の体現者である事は言うまでもない。

そしてそうしたマスター達を信奉できる事は、それ自体が恩寵のなせるわざだ。

しかしマスターとは、真実という未知の風景を覗き込ませてくれる窓枠の様なものだ。

例えその窓枠からの風景がどんなに素晴らしいものであっても、遅かれ早かれその窓枠を乗り越えて、ダイレクトに風景の中へ飛び込む必要がある。

フーマンは、自分がその窓枠となる事を許さなかったが故に、私もフーマンという窓枠にぶら下がる事を止めて自立の道を歩む力となってくれた事に、深く感謝している。

なおフルーツ断食リトリートに関しては、フルーツのみを食する事で、より高い波動を受ける事が出来る様に身体の細胞レベルで組み替えが起こっていたのかも知れない。

但し人によっては極端に繊細になってしまう事もあり、こうしたワークは慎重さが望まれる。

ハワイの様な南国と違い日本ではエネルギーが「陰」に傾き過ぎて冷え性等、肉体的変調を来す場合もあり注意が必要だ。

アジズは、リトリートの食事に関しては原則として通常のベジタリアンを奨励し、食事の量を制限したり、ある特定のものを摂るといったダイエット食にする事は終始望まなかった。

またフーマンからも、「このワークはある特定の時期に必要だったもので、ずっとやり続ける事は必要ないし危険ですらある。」とのコメントを最期のガイダンスで貰っている。

>>(2)世界平和の祈り