恩寵の扉が開くまで part2

(3)神秘体験!?

ハワイから帰国した当初は、フーマンのインストラクションに従い、なるべく「シンプルでなにもしない」生活を心がけた。

しかし、程なくアジズのオーガナイズやインド・リトリートツアー等々を組んだりして活発に動き始め、インストラクションもうやむやになっていった。

さらに探求者としての好奇心もムクムクと頭をもたげ始めた。

年が明けて間もなく、人づてに非常にユニークなキリスト教の団体があると聞き、わざわざその教会へ行ってみる事にした。

この教会は伝統的なカトリックにもプロテスタントにも属さない「異端派」で、「異端」と聞くとどうも血が沸き踊る。

「反逆の魂」である事を勇気づける、OSHOの影響かも知れない。

牧師の方から話しを伺い、その流れから洗礼を受ける事になった。

それは真っ白い衣服に着替え、真冬の凍てつく庭に洗礼用の水槽が用意されていて、氷の様に冷たい水の中に頭から全身を沈めるという強烈なものだった。

しかし真冬の海でのセーリングや「滝業」を趣味としていた私にとっては、なんとも言えぬ爽快さと恍惚感を味わった。

洗礼の数日後に定例のフルーツ断食リトリートが始まると、数日前の洗礼体験が鮮やかに甦った。

「精霊」が降臨したと思しきエネルギーに満たされて、あたかもキリストの霊的な存在と繋がった様な、不可思議な体験をしたのである。

それはハワイで体験した「透明な私」へのシフトといった静謐なものではない。

全身が神の栄光に満たされて、大宇宙の力そのものと一体になり、「吾が為すは吾が力に非ず。天地を動かす神の力なり!」といった体験だ。

「予の辞書に不可能の文字はない!」とか「我は神なり!」とか叫びたくなる心境だった。

さっそくアジズとフーマンに、その体験と心境をメールで報告した。

すると直ちにアジズから返事があった。

単刀直入にズバリ、

「ただそんな事は忘れて、自分自身で在れ!」とのこと。

「仏に会えば仏を殺し、祖に会えば祖を殺せ!」と禅では言うが、まさにアジズの面目躍如といった内容だった。

アジズによると、

「その教会の哲学と信仰は全く意味がない。洗礼を通して自分  を明け渡す事で、より魂に近づく一時的な経験をしたに過ぎ  ない。」と言う。

アジズのお陰で、直ぐに冷静な自分を取り戻す事が出来た。

そしてやや間をおいて、フーマンから全く同じ様な内容のメールをもらった。

しかしそれは、今の私の状況を非常に丁寧に説明してくれたもので、そのやさしい心づかいに頭が下がった。

かいつまんで述べると、

「ハワイリトリートで大きなシフトが起こり、マインドによる  探求の道から魂の道へと変化した。だから洗礼であれなんで  あれ、ハートや魂が広がるきっかけがあれば、そうした事が  起こる様になる。  今後も、魂の目覚めに関する様々な新しい体験が来ては去っ  て行くだろうが、それはマインドを越えた魂としての自分自  身に完全に止まるまで続くだろう。」というものだった。

その後も折に触れて、不思議な「凄い!?」体験をして、その都度アジズやフーマンにも報告したが、「体験ではなく体験の主体に留まりなさい」という事が、2人の首尾一貫したメッセージだった。

このようないわゆる神秘体験とかエネルギー体験について、フーマンは言う。

「そうしたエネルギー体験はひとりでに来ては去っていくもの  で、それに焦点を当てる必要は全くない。それらは、ただ通  り過ぎるに任せなさい。

 究極的には、霊的な道において体験に関する事はそれ程重要  ではく、大切な事は自分自身で在るという事だ。」

「私が在る(I AM)」という当たり前の事こそが、存在の最大の神秘なのだ。

霊的な探求においては、その道を歩めば歩む程、途中で様々なワナに遭遇する。

こうした神秘体験は一度味わうと、麻薬と同じく解っていてもそれを追い求めてしまう傾向がある。 (少なくとも私の場合・・・。)

何が起こっても、いつでも何処でも「自分自身で在る」という事を、ぜひ肝に銘じておいて欲しい。

既に述べたが、私は23歳の時に「悟った!」と思い込み精神的なバランスを崩して一年間を棒に振る苦い体験をした。

あの時、「誰か正しく自分の状況を理解し説明してくれる人がいたら...。」と何度も悔しい思いをした。

しかし今では、すぐに相談する事ができ信頼に足る2人の教師がいることを、つくづくと幸せに感じた。

>>(4)フーマンを待ちわびて