恩寵の扉が開くまで 完結編

(3)目を開けたままで・・・

フ:それでは目を開けたままで、先程と同じ深さに止まれるかどうかを見なさい。

そこに違いがあるだろうか?

キ:目を閉じるとその深さの中に没入出来るのですが、目を開けると外側のリアリティに引きずられてしまいます。

フ:数分でいいから、目を開けたまま先ほどのスペースに止まるようにしなさい。この物質世界から離れるのだ。

あなたの目に映るもの全てが夢だ、と想像しなさい。

あなたが見るもの、感じるもの・・・全ては夢だ。

あなたはただ呼吸して、「これ」に明け渡す。

あたかも彫像の如くに、「これ」止まったままでいる。

この身体もまた、夢の一部だ。

この身体もあの身体も、ちょうどこの部屋にある椅子などの家具と同じだと想像して・・・。

全ては夢であり、ただ「あなた」だけが、もっともっと夢から覚めて行く。

ヨガビジャもアジズもフーマンもあなたの姉も、すべては幻想だと想像しなさい。

実際にそうなのだから・・・

そして、「これ」だけがリアルだ。

物質世界のリアリティを手放しなさい。

(目を開いた物質世界の)外側のリアリティと(目を閉じた)内側のリアリティの間に分離はない。

そして、あなたは「これ」だ!

目を閉じた時と同じだけ、強く「これ」を感じるかな?

キ:はい。

キヨタカとフーマンの間に、分離があるかな?

キヨタカを私に示しなさい。

フーマンを私に示しなさい。

実際には、「これ」だけがある。

{リアリティ(Reality)とは何か?

一般的解釈では、マインドが創り出す幻想(過去や未来、欲望や悩み、苦しみ...etc.)ではなく、今この瞬間に現実に起っている出来事を指す。
「思考の産物と対比した現実」それ自体の事であり、これを仮に「相対的リアリティ」と呼ぼう。

しかしフーマンはその先の真実である「絶対的リアリティ」について語っている。
つまり「認識の主体としての私(I AM)」こそが絶対的リアリティであり、それが目覚めると、マインドも物質世界で今起こっている現実も全て幻想である事が解ると言う。
古代インドの奥義書ウパニシャッドの記述「この世の出来事は全てマーヤ(幻想)である」とは、絶対的リアリティに目覚めた人によって語られる実体験である。

知的にはウパニシャッドの記述は理解できるが、実際に目を開いてこの現実世界に向き合うと「認識の主体としての私(I AM)」に止まる事がとたんに難しくなる。
現実世界では、お腹も空くし殴られれば痛い。それがマーヤであるとは、とても思えなくなるのである。
ここでフーマンがガイドした「目を開けたままでこれに止まる」というエクササイズは、私にとって新たなチャレンジであり「これ」が深まる事の大きな転機となった。「目に映るもの全てが夢だ」と認識する事で、外側に漏れていたエネルギーを「これ」に止める事が容易となり「これ」の新しい次元が開かれたからである。

 

>>(4)新しい生き方