恩寵の扉が開くまで 完結編

(6)恩寵とは何か?

フ:あなたは既に、恩寵(Grace)を受け取っている。

それはとても大きなものだ。

「これ」こそがこの私なのだ、という事が分るだろうか?

フーマンというものはいない。

これはただの肉体だ。

キ:私は「これ」が恩寵であると感じます。

本当に私は祝福されています。

でも私のマインドは、「これ」という恩寵が何なのかもっと具体的に理解する事が出来ません。

フ:何故、それを知る必要がある?

喉が渇いたら、あなたはただ水を飲む。

どんな種類の水なのか、考えないだろう?

それが日本の水かハワイの水か、そんな事はどうでもよい。

 

この質問をする理由は、あたのマインドは長年に渡ってプログラムされているからだ。

頭でそれが何かを理解しないと、受け入れる事ができない。

それは、単なるプログラムだ。コンピューターのソフトウェアプログラムと変わらない。

「それを受け入れる前にそれが何なのか知る必要がある。」と言うプログラムだ。

しかしマインドを取り去ると、理解すべき必要のある人が誰もいなくなる。だから恩寵とは何なのか具体的に理解する必要もなくなる。

あなたは、ただそれであればよい。

それで在りなさい!

誰かと恋に落ちた時、相手の生い立ちや経歴や母親の名前等を常に知っていなければならない事はない。 ただ今のハートのフィーリングに従えばよい。

そうした情報を知らなくても、あなたがその場にあれば、存在そのもののエネルギーがあなたを導いてくれる。

あなたにはまだ、「頭で理解したい」という過去のプログラムが残っている。

だから、あなたにはあまり本を読んで欲しくないと言ったのだ。

瞑想の境地等に関して、沢山の質問をあれこれと抱え過ぎないように。

あなたは、OSHOの臨在を覚えているかな?

キ:ええ。

フ:OSHOの臨在に触れた時、「私は今どの境地にいるのか?」という質問は起こらなかっただろう?

キ:OSHOといた時は、「これ」=OSHOの臨在と理解していました。でも今は、「これ」がOSHOかフーマンか神か、特定出来なくなっています。

フ:もちろん、その通りだ。

なぜなら、悟りとは一つだからだ。

光は一つであり、真実は一つだ。

リアリティは一つで、二つではあり得ない。

それは非常にシンプルだ。もし違った真実があったら、混乱が起こる。

十の違った神がいるわけではない。

ちょうと十種類の空気や水が存在しないのと同じだ。

「世界中のどの海へいっても、海の水は同じく塩辛い」と仏陀は言う。

日本でもハワイでも、海の水の成分は同じであり空気も同じだ。

神に関しても同じだ。

天照大神も、ハワイのカーネ、イスラムのアラー、インドのシバも・・・それは全て同じだ。

私は、知っている。

何故なら、私はそうした神の本質をよく見てみたからね。

仏陀も同じだ。

もしそうでなかったら、あなたの悟りではなく仏陀の悟りが特別なものとなる。

するとあなたには可能性がない。

なぜなら、あなたと仏陀は違うから...。

仏陀やキリストと同様に、同じエッセンスをあなたも持っている。

神道では、「神の分霊(わけみたま)」という概念がある。

我々は全員が、同じ所からやって来た。

あなたのハートは、そうした事を既に知っている。

だからそれがわかれば、一瞬で理解が起こり、それとなる。

それ以上の知識は不要となる。

ただそれになりなさい。

何も知る必要はない。

もっと知る必要があると思うのは、マインドのプログラムだ。

マインドは退屈を恐れるので、何でも哲学的に考えようとする。

私だって「これ」が何なのか、そんな哲学的な事は知らない。

「ただそうである」、それだけだ。

本当だよ。

悟りの価値とは何だろう?

悟りの様々な境地を体験し尽くして、究極のニルバーナ(涅槃)に到達して初めて価値がある、というのは違う。

それは全てマインドの価値だ。

本当の価値とは、マインドがないという事だ。 それこそがあなたに自由をもたらす。

あなたの人生は、いかに無垢でシンプルで純粋なものとなるだろう!

あなたは、自分自身から自由となる。

それが、本当の価値だ。

マインドの知りたいという欲求を満たす事ではない。

私たちがしている事は、マインドからの自由という事だ。

 

>>(7)ハートは既に知っている