恩寵の扉が開くまで 完結編

(1)真実の自己を守る

 {2日連続してフーマンのセッションを受けたのは初めての事で、私は未だかつてない強烈なインパクトの中にいた。 過去や未来はおろか、目に映る全ての世界が幻想である事を体験させられた私は、唯一のリアリティである「これ」へとエネルギーは自然に向かい始めた。 その影響は私の思考や感情のレベルに止まらず、細胞レベルにおいても変化が起こり始めた様だった。

3回目にあたる今回のセッションまでの間、完全にフリーな3日間があり、パワフルなセッションを消化する為の完璧な状況が整っていた。 そして2日目の夜、宿泊先の部屋で「これ」に寛いでいると、突然ハートの奥深くの扉が開かれて神聖な次元へと引き上げられる体験が起り始めた。 これに似た体験は過去にもあったのだが、その時は「自分が消えてしまう...」という恐怖が先立ち、その体験に寛ぎ手放す事は出来なかった。

しかし今回は全く状況が違う。 フーマンの強力なサポートとハワイ島という完璧な環境に守られ、自分が消え去る事がごく自然に感じられた。 「探求を始めて以来の様々な出来事、それはただ今日のこの瞬間を迎えるための準備だったのだろう...。」 その想いとともに、ハートの奥底から熱いものがこみ上げて来た。 「ああ、今日こそ死ぬのにもってこいの日だ!」 小さな私がハートの扉の中へと吸い込まれて消え去り始めた。 これこそが恩寵の為せる業である事を確信した私は、部屋のソファーに身を沈めてただそれが起るに身を任せた。

しばらくして突然部屋の電話が鳴り響き、いわゆる現実へと引き戻された。今回は全エネルギーをフーマンとのワークに捧げようと決意して来た。だから誰にも滞在先を教えなかった筈なのだが...? 不審に思いつつも電話に出ると、電話の主はP氏で、「観光客のいない幻の海岸があるから明日一緒に探索に行こう。夕食も招待する。」との内容だった。

実は、P氏も私と同時期にフーマンのワークを受けにパートナーと共にハワイ島に滞在していた。P氏は私の長年の道友で、OSHO、アジズ、フーマンと同じ道を歩んでいる。精神的探求を長年続けながら、才色兼備の女性をパートナーとしてビジネスの世界でも成功している。探求の旅の途上において私は大勢の探求者たちと出会ったが、お金と時間と社会的成功の全てをバランス良く手にしている日本人の探求者はP氏以外に知らなかった。OSHOの語る「ゾルバ・ザ・ブッダ」の生き方を文字通り実践している人物の様に思えて、私は日頃から彼の生き様に敬意を払っていた。

私は「今とても重要なプロセスの最中だから...」と、丁重に断りの返事をしたのだが、とても熱心に誘ってくれる。 P氏曰く「それが起るかどうか、全ては決まっているのだから深刻になる必要はない。」と言う。 P氏と話していると「自我が死ぬ」とか「神聖な次元」とかに埋没している自分がとても偏狭に感じられて、現実社会から遊離しているのではないか?という思いが頭をよぎり始めた。同時に、わざわざ私の滞在先を探し出してくれた熱意にもほだされて、P氏のオファーを受ける事にした。

翌日はP氏カップルと「幻の海岸」を探索。その海岸への道路はまだ整備されておれず人の気配もなく、大自然の海岸を3人で大いに楽しんだ。また夕食も素晴らしく、ゾルバサイドを大いに満喫したのである。

P氏のオファーで大いに英気を養った私は、その翌日最後のセッションに臨んだ。}

フ:今回はこれが最後のセッションとなる。 今までのセッションを振り返ってみてどうだったかな?

キ:前回のセッションで、未だかつてない程強烈なインパクトがありました。

フ:なるほど。

キ:特に一昨日の夜、瞑想を始めたら非常に深いくつろぎが起こりました。それは私の努力とは無関係に、今へと引き込まれる体験でした。

これこそが「絶対の境地(absolute state)」だと思います。

フ:いや、絶対の境地とは違う。

それは、境地ではない。

「本当のあなた」の事だ。

あなたの自己は、既に平和であり、至福であり、気づきであり、深みであり、意識であり、愛であり、それらの全てだ。

キ:境地ではないのですね?

フ:それは境地ではない。

もしそれが境地だったら、瞑想した時だけその状態になり、普段は元の状態になる。

しかし、本当のあなたは境地を越えている。

坐る時はそれがどんどん深くなる。

そして坐らない時も、マインドがどんどん軽くなる。

だからあなたの場合、マインド全体が変容されつつあるという事だ。

あなたは自由であり、内側に全一性を感じる。

キ:そうですか。とにかく、その晩はどんどん深く内側に引き込まれました。

ところがちょうどその時、P氏から「遊びに来ないか?」という電話がありました。

でも「今は、悟りが起こりそうなくらい瞑想が深く入りつつあるから。」と断ったのです。

するとP氏は、「全ては存在のタイミングだから、悟りが起こる時は何があっても起こる。だからそんなに瞑想に深刻にならない方がいい。」と言うのです。

そう言われて、インドの覚者ラメッシュの常套句「全ては決まっている」という言葉を思い起しました。

確かにP氏の言う通りちょっと深刻になり過ぎていたと思い、瞑想の事はしばらく脇において昨日はとても楽しい思いをしました。

フ:・・・。

 {唖然とした表情のフーマンは何も言わない。居心地の悪い沈黙が訪れた。}

キ:私の質問は、私の選択で何かミスした事があるのではないか?という事ですが...。

フ:それは、よい選択ではなかった。

キ:じゃ、ミスしたという事ですか?

フ:いや、ミスしたという事ではない。

キ:ゾルバの部分を満喫はしたのですが...。

フ:しかし、その晩はノーと言うべきだった。

その晩だけ、あなたは私とたった一度だけ本当に出逢う体験が起りつつあった。

その晩の深い体験は、内側へのシフトが起こり本当の目覚めが起こりつつあるものだった。

キ:確かに、非常に特別な夜でした。

フ:もう何度もあなたに語った様に、あなたは夢を手放さなければならない。

Pは夢だ。

本当の目覚めのチャンスというものは、いつもあるものではない。

Pはまだ悟っていない。

どうして彼が、悟りについて語る事が出来る。

どうして悟っていない人からのアドヴァイスを信じるのだ?

例えそのアドヴァイスが覚者の言葉を引用していても、それを鵜呑みにしてはいけない。

あなたの直感は既に知っているはずだ!

どのアドヴァイスが正しいかという事をね。

内側に入って自分のハートに聞けば、何が正しいか直感でわかったはずだ。

その晩は、他の人々と繋がる事は正しい時ではなかった。

その事をあなたは既に感じていたはずだ。

キ:残念です...。

フ:その選択は、あなたの真実とは整合していなかった。 今回はしかたなかったが、他人の言葉ではなくいつでも自分の直感を信じなさい。

あなたが目覚めつつある「真実の自己」とは、既にあなたが知ってい部分だ。

それはあなたに、どうすれば良いのかを告げる。

それはハートで感じる事ができ、それは「イエス」か「ノー」かを非常にクリヤーに告げる。

そこに疑問は起きない。

そこに意識を向ければ、一人でいるべきかどうかの疑問の余地は全くなかった筈だ。

キ:そう言われれば確かに...。

フ:あなたは「真実の自己」を、自分自身で十分によく守らなければならない。

ちょうど自分の赤ん坊をしっかりと保護する様なものだ。

それはまだ成長の途上だから・・・。

子供は急激に成長するかと思うと、突然道を逸れ成長がストップしたり破壊的になったりする場合もある。

一昨日の出来事を悔いる必要はないが、自分に起こった出来事を統合する為に、独りでいる時間を持つ事は非常に大切だ。

統合が起こった後なら、何をしても問題はない。

しかし、その晩はパワフルなワークの直後だったから、統合の為に捧げる時間を持つ事が必要だった。

前回その事をあなたに知らせておくべきだった。

外側の事は夢だから全てを手放して独りの時間を持つという事をね。

悟りとは、「来る時は来て、来ない時は来ない」という様なものではない。

それはいつでも「恩寵」による作用だ。

いつでも・・・。

キ:それでは、悟りは探す必要はないけれども、穏やかな自律は必要なのですね。

フ:その事は既にもう話しているはずだ。今は、とても大切な時期だ。

今は創造性を発揮する時でも、たくさんの物事をする時でもない。

関係性も控える時だ。

非常に自然体でいて、流れに身を任せて手放して行く時だ。

あなたの体験した深さとは、キヨタカの体験ではない。

キヨタカが落ちた事によるものであり、本当に深い所に手放した結果だ。

そこに私がいる。

それはいつでも起こる出来事ではない。

しかし手放せば、その深みはいつでもそこにある。

{この時の出来事は「悔いる必要はない」とフーマンに言われたものの、いつになく厳しい語り口からして、非常に稀な機会を逃してしまった事は明白だった。 あの晩、確かに「意識の爆発」とでもいえる未知の体験が起りつつあった。そして些細な口実を見つけて、その体験を回避してしまった様に思う。

「あなたが本当に真理を渇望しているなら、この世のどんな力もあなたを引き止められはしない。だが、真理を渇望していないなら、同じようにどんな力も、あなたにそれを授けることはできない。」とOSHOは語っている。 だから問題は「真理への渇きが本物かどうか」という事であり、残念だがこの時は真理以外の渇望が私の潜在意識の奥底から浮上してしまった。

私にとってその具体的な渇望とは、「この現象世界を最大限に楽しんで生きる事」つまり「ゾルバ」としての生を満喫したいという渇望である。「ゾルバ」とはギリシャ人作家ニコス・カザンザキス著「その男ゾルバ」の主人公の名で、この世が与える楽しみを最大限に享受して情熱的に生きる事の象徴である。

当時の私にとり「ゾルバ」として生きる事は真実を生きる事と同義であり、それが欲望であるという事実すら本当には理解していなかった。その結果、いたずらに探求を長引かせてしまったと思う。

「この現象世界そのものが夢である」という事は、フーマンのワークで十分に理解した筈だった。しかし、その理解がストレートには「夢からの目醒め」に至らせてはくれない。マインドは、夢がさもリアルであると思わせる様々なトリックを創り出すが、私の場合、その一つが「ゾルバを生きるべきだ」という思考であり欲求だった。}

>>(2)何に明け渡すのか?