読者の感想
こんな凄い本が...
Nさんからメールを頂きましたので、ご紹介します。
* * *
アジズの本、フーマンの本、本当に素晴らしいと思います。
今までほとんど誰も指摘してこなかった真我の実相(見つめている"これ")、悟りの具体的方法を、日 本に紹介してくださって本当にありがとうございます。
ニサルガダッタ・マハラジの本は難しすぎて実際の役にはちょっと立ちません (少なくとも私には)。 あの本ではたぶん誰も悟れないでしょう(^.^)。 悟って初めて分かる本だと思います。
キヨタカさんの本は日本で初めてといって良い、悟りの具体的指針です。 でも、まだ日本人には準備ができている人がほとんどいないのでしょうか、こんな凄い本がほとんどどこにも置いていないなんて。残念です。
これらの本を普通の人でも読むような時代に早くなって欲しいものです。
ただ在ることがすべて(「恩寵の扉が開くまで」)
キヨタカさん、ヨガビジャさん、
こんにちは。
先日、フーマンの完結編を読ませていただきました。
どんなふうにまとめられるのだろうと、予想がつきませんでしたが、とても納得がいく終わり方で、ますますキヨタカさんへの(勝手な)親しみの気持がわきました。
ほんとうに貴重な本だと思っています。
ハートにダイレクトに働きかけてきます。
ほんとうに、「静かな喜び」なのですね、「これ」の状態は。
私は、もう少し派手な感じで起きてくるのかと思っていたし、生活ががらりと変わるのかと思っていましたが。
今までは、どこかに到達しようと思っていました。山の頂上のようなものに。
けれども、今はただただ、一度も離れたことの無い「home」に留まり、ただ在ることがすべてなのだなーという感じになりました。
私は、この数年ひたすら浄化のワークを続けてきて、いいタイミングでキヨタカさんの本に導かれ、恩寵を受け取りました。
そして意識のシフトが起こりました。
まさしく、doing から being へと。
リバーシングのクライエントさんなどにお奨めすることが多く、助かっています。
ワークをして、その先にどこに向かうかを教えてもらえますものね。
本当にありがとうございました。
お茶会、瞑想会でお逢いするのを楽しみにしています。
blessings, By S
恩寵の力に満ちて(「恩寵の扉が開くまで・完結編」)
キヨタカさん。いつもお世話になっております。
完結編の御送付ありがとうございました。サインまで入れていただいて感謝感激です。
今回の完結編だけではなく、キヨタカさんの著作を読むといつも思うんですが、
自分の信じることや価値を置くものに対しての行動力や情熱には驚嘆させられるばか りです。
キヨタカさんは一体どうやって生活してるんだろうとか考えてしまうんですが、
僕は活動(仕事)をいつも忙しくしてしまい、なかなか人生をサレンダーの方向へ 持っていけません。
僕が今いる業界がもうあまり長くもたなさそうってこともあるのですが、道に入るこ とさえなんと困難だろうとか、そもそも自分はまだ全然準備ができてないのではないかとか思ってしまいます。
しかし当面は今の生活を変えるわけにもいかないので、隙間の時間を縫うように瞑想 を続けていくしかないかなあと考えています。
自分の店を持つようになって8年以上過ぎ、物質的にはそこそこ一般的な感覚の中で なら欲しいものは手に入るようにはなったんですが、そこには当初考えていたような 景色はもうありませんでした。
いつの間にか物質的に欲しいものはかなりなくなってしまっており、漠然とした虚無 に包まれているような毎日で、大学生のころよく読んでいた精神世界系の本を読み返す 生活の中、ちょうど今から1年程前キヨタカさんの著作に出会いました。
キヨタカさんのストレートな行動力にもですがその具体的な内容に大変驚いて、すぐ に新宿での瞑想会に参加させていただきました。
それ以後、リトリートにも参加したいといつも思ってるんですが、自分が身を置く業 界で連休を取ることが相当困難であることと、
そもそも僕のような初心者が行っていいものだろうかとか考えてしまい、なかなか実 現しません。
日常的に毎日坐ることさえできずにいる有様で、自分にとっては仕事を放棄していく ことが本当に難しいようです。
今回、完結編を読み進めていくうちに、不思議と背中にプレゼンス感覚が立ちあ がってきました。 以前マハルシの本を読み始めた時、強力にプレゼンスの感覚に引き込まれたことを思い起こしました。
キヨタカさんの本も恩寵の力に満ちていますね。
ただこれとして寛ぐ。自分にそうした感覚が来年はもっとあるよう祈ってます。
そしてこの本を届けてくれたフーマン、そしてキヨタカさんヨガビジャさんに感謝いたします。
By M
ただの主婦ですが(「恩寵の扉が開くまで・完結編」)
本を受け取りました。 ありがとう!
ただ涙が流れました。 ありがとうございます。
私はただの主婦ですが、サニヤシン(Dさん)に出会い、 瞑想の道に入りました。 これまで肉体をもったマスター(OSHO、アジズ、フーマン....etc)に 直接会ったことはありません。 プーナに行ったこともありません。 マインドは何かたりない、たりないと私を追い立てていました。
けれど、瞑想会に参加し、本を読み、 ただ源にかえる旅をしている自分に目覚めました。
源にくつろぐ、、、 私の内側の陽のエネルギーを受け入れ ただくつろぐ... (陰のエネルギー)
自分の内側の陽のエネルギーを抑圧していたので、 感じてあげることができませんでした。
源にくつろぐと人生に対して創造的になります。 (これは芸術的になるとか、なにかをするということとは違います) ただ、あるがままに、自分の人生を生きて行くことでしょう。
OSHO、アジズ、フーマン 直接マスターに出会えなくても、 彼らによって目覚めた人が、確実に探求者を目覚めさせてくれます。 なぜなら、そこには恩寵が降りそそいでいて、扉が開いていれば ただ光が入ってくるから...
キヨタカ ありがとう! ありがとう!
Love M
悟らなかったことに感謝(「恩寵の扉が開くまで・完結編」)
キヨタカさま
こんにちは、ご無沙汰しております。Kです。 『恩寵の扉が開くまで・完結編』の感想をお送りします。
筆者はこの本を悟ってから書きたかったとあとがきで書いている。 なんとも正直な人である。
しかし悟った後ではこの本は書かれなかったに違いない。 悟った人物が本を書くということがいかに大変なことであり(この辺の事情はデヴィド・ホーキンズの著作に詳しい)、たいていの人は沈黙するのが常であるという理由の他に、たとえ書かれたとしても常軌を逸した本になるに違いないと思われるからである。
一読者としては著者が悟らなかったことにまずは感謝したい。
悟った人、覚者の言葉は魂に直接響く。
しかし彼らは必ずしも人を悟りへと導く、よき教師というわけではない。 なぜなら人間は失敗から学ぶ生き物であり、成功体験や超越的意識についての美しい話をいくら聞かされたところで、多くの人びとにとってはあまり参考にならないからである。
それよりもむしろ、他者のさまざまな挫折体験を知ることで、マインドの袋小路から抜け出す道がわれわれに開ける可能性が高いのである。
しかしこうした反面教師を敢えて買って出る人は非常に少ない。 世の中には偽物も含めて多くの覚者の言葉が出回っているのに対して、こうした反面教師の言説はほとんど見かけない。
この本の価値が非常に高い所以である。
覚者はその人に見合った処方箋を処方できる能力をもっている。 しかしその処方箋の通りに行動して健康体を取り戻すか否かは、求道者次第である。
一方、著者には瞑想というほぼ誰にでも効くクスリと、人生の上で避けるべき不摂生についての豊富な知識がある。
求道者のやる気を引き出しさえすれば、著者の勧めに従うことで健康体を取り戻せる人の方が多いかもしれないのである。
それゆえ、悟っていなくてもそれほど気にする必要はないのではないか。
もっと言えば、敢えて悟らない菩薩の役割を引き受けてくださっている著者に、われわれは感謝すべきだとすら感じる。
しかしながら「これ」は覚者をも超えているものである。 だから私の本音を言えば、悟った悟らないなどということに執着せず、魂の直感に従って行動することで、恩寵を呼び込んで生きればよいのである。
それゆえ、リーラスペースも覚者を含めてさまざまな人びとが呼び寄せられる、開かれた場になっていくことを目指すべきなのではないだろうか。
最後になんとなくそう思った。
この本を持っているだけで(「恩寵の扉が開くまで・完結編」)
キヨタカさん、ヨガビジャさんへ
「恩寵の扉が開くまで 完結編」、大変すばらしいです。
なにがすばらしいかといえば、本の表紙がすばらしい。
これほど美しい本は、冗談ぬきで見たことがありません。
この本を持っているだけで、恩寵が訪れそうな気にさえなります。
肝心の内容の方ですが
正直いってしまうと
もはや僕のレベルではついていけない感じでした。
フーマンが何百回となく「これ」について語っていますが
「これ」って「どれ」って感じで、
フーマンもさることながら
それを理解できるキヨタカさんもすごいの一言です。
しかし、聖書にもある通り
「すべてのわざには時がある」
ということで
もっと成熟して、期が熟するそのときまで、瞑想に「励み続けたいと思います。
by T
唖然とさせられて(「恩寵の扉が開くまで・完結編」)
キヨタカ&ヨガビジャさま
こんにちは。 Uです。
「恩寵の扉が開くまで、完結編」読了しました。 素晴らしいですね。 フーマンには三巻とも唖然とさせられて、一度で良いから会ってみたかったです。 自分の求めていたマスター像そのままという感じ、まさにbelovedです。
カナダのジョンというマスターの「扉を開こうとせずにそのままダイレクトに繋がりなさい」というサジェスチョンも、インスピレーションになりました。 リトリートで感じた事はまさにそうだなと改めて思いました。
一番胸を打たれたのはキヨタカさんのお姉さんの看病の話、カルマを全部清算して体を離れたというくだりです。 自分の祖母が亡くなったときも、あるとき病室のベッドで絶対安静なのに体を起こしてくれと言って聞かず、親戚中で手を貸して起こすと、ほとんど何も見えない病室の窓の外を見て、すべてをこの世に返すように泣くというか、ふるえていた事を思い出しました。
その後はもう子供のような感じになって逝ったのですが、ちゃんと生きた人の人生の、その人にしかないドラマや深みは、言葉では言い表せない貴いものですね。
(略)
ではでは。
Love
最高の書籍(「恩寵の扉が開くまで・完結編」)
Oさんがミクシイに書いたものを、転載しました。
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恩寵の扉が開くまでシリーズの完結編。 著者がフーマンと出会い、指導を受け、その後紆余曲折があり、ついには外部のマスターをも超えていくさまが綴られています。
フーマンの言いたいことは、「これ」とあること。 そのためには頭で色々と考えたり、マインドにとらわれているうちは、決してそのことがわからない。それが言葉を超えて伝わってきました。
そしてフーマンが肉体を離れたのち、外側のマスターからも自立していくことが記されており、グルやマスターに頼りたい人は抵抗があるでしょうが、これからはそれが大切なことではないかと感じさせられました。
色々と本を読んできましたが、この著作ほど「これ」を感じさせてくれたものはありません。
わたしが最近、感銘を受けその教えの実践をしている、フーマンと著者の個人的やりとりの記録を中心とした、恩寵の扉が開くまでの完結編です。
宗教やスピリチュアルが目指すことについて、色々な言葉で表現されていますが、フーマンはシンプルに「これ」と言っていますが、本を読んで、「これ」を実感したことはほとんどなかったですが、今回はそういった体験をしました。
電車の中で読んでいて、ある個所のところでハートの奥が開き、強いエネルギーが沸き起こり、自然に涙がにじんできました。
私にとっては最高の書籍です。
ようこさんのブログから(「恩寵の扉が開くまで 完結編」)
リーラスペースのキッチンワークをしてくれている、ようこさんのブログから転載しました。 http://rotus.at.webry.info/
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『恩寵の扉が開くまで 完結編~フーマンを超えて』 が発売されました。
著者の天野清貴氏は、リーラスペースの主催者で私がときどき瞑想のリトリートでキッチンワークに行くところです。
フーマンとはハワイに住んでいた覚者のこと。
ちょうど、3冊目となる恩寵シリーズの完結編は、 私がリーラスペースと関わるようになったころと重なっています。
あれから6年もたっているとは!
ですので、私にとってのリーラの歴史はこの辺りから始まります。 というわけで、かなり今までとは違った気持ちで本を読みました。
始めは瞑想を習うだけのリトリートの一参加者でしたが、 他の参加者はOSHOのサニヤシンや、修行系の雰囲気が漂い、 それまで関わってきたゲリーや精神世界とは違って驚くことばかりでした。
けっきょく一番初めのリトリートのときにキッチンにスカウトされ、 その後は、ずっとキッチンスタッフとしてリーラスペースを見てきました。
そんな当時の私を思い出しての感想になります。
この本にあるように、私が始めてキッチンに行ったころの話題は (リトリート中はサイレンスなので会話はありませんが、 リトリート前後でのことになります) 五井昌久先生のことばかりで、かなり面食らいました。 (瞑想とは一切関係ない話題だったので)
五井先生は白光真宏会の創始者である宗教家です。
他のスタッフの中にも五井先生信望者がいたり、 (宗教とは関係なく)かなり盛り上がっていて、 私も富士山の麓にある本部に連れて行ってもらったことがあります。
広大な敷地に大きな建物や整えられた庭が美しく、 富士山の近く特有の静寂にあふれた気持のよい場所でした。
私の五井先生の知識といえば、 五井先生とゲリーの教えに共通するものがあるということで、 ゲリーが白光真宏会の一部の人に招かれて この場所にきたことがあるということくらいでした。
氏の当時、リトリートのキッチンのために滞在するたびに、 五井先生のビデオやテープを見せてもらい、 私も五井先生の人柄や純粋な話には興味を持ちました。
以前にも書きましたが、私はちょうどフーマンとは入れかわりでしたので、 一度も会えずじまいでしたし、フーマンは宣伝されることも無く...
そもそもフーマンは限られた少人数の生徒に教えていたので、 キッチンに呼ばれるまで、その存在すら知りませんでした。
ただ、キッチンに行くたびに評判ばかりを聴くこととなり 多少の興味を惹かれることはありました。
とにかく、すごいと。
けれど、本人を知らないということは未練も執着も持てないというわけで、 肉体を去ってしまったとなれば、なおさらでした。
そして、あまり関心が向かない理由はもう一つありました。
フーマンの教えのほうも、教えを受けた生徒のみということで、 一切秘密となっていたので、その正体がちっとも見えなかったからです。
ですから本を読むまでは、私もその内容は知らなかったのです。 (もちろん秘密にされていた理由もあり、本のほうで明かされています。)
ですから当時リーラで、なぜあんなにみんなが 五井先生に夢中になっているのか本当に不思議に思っていました。
おそらく、このブログを読んでいる人にも何だかよくわからない...と思うのですが、 私もフーマンと五井先生とのつながり、というのが、 やっと、この『恩寵~完結編』で理解されることになったのです。
フーマンと五井先生との共通点、 それが、2人の共通の霊統が神道、天照大神であること。
この話は私にも個人的に面白いつながりを知らせてくれることでした。
余談ですが、さきほど、五井先生とゲリーの共通点ということを書きましたが、 確かに私にもそれを感じることがありました。
それは情報という点でもそうなのですが、 "感じるもの"が非常に似ているのです。
大らかなぬくもり...というのでしょうか...。 暖かい陽だまりのなかでくつろいでいるような感覚というのでしょうか。
そもそも、ゲリーはエジプトでアクナトン王だったとき起こした宗教は、 それまでの多神教に反旗する、太陽を唯一神とするものです。
本当はもっと他にもつながりが見てとれるのですが、 話が横道に逸れるので...
このフーマンが去ってからの6年の間は、 行くたびに清貴氏のブームが変わり、 カナダのジョンや天命のときのH氏、神道、 ホ・オポノポノ、スプーン曲げ、道元、シータヒーリング...
私にとっては新しい情報に出会えると共に 一緒に勉強するのは楽しかったですし、 そこから得られた者を思うと、感謝でいっぱいです。
そしてこんなふうに、私の知っている6年間の間、 リーラではいろいろなブームが来ては去っていきましたが、 変わらなかったもの... それがフーマンの教えであり、 清貴氏を支えていたことを知ることができました。
だからこそ、フーマンが去ってから、 カナダのジョンと天命のH氏と活動をするときには、 もちろん、楽しいことや得たこともたくさんありましたが、 清貴氏の葛藤の苦しみは、本に書かれているよりも大きかったと思います。
そのころ、私はフーマンの教えを知らなかったので、 清貴氏の抱えている葛藤の大きさの理由がまったく理解できず、 何のお役にも立てず見ているだけだったのを思いだします。
さて、私のブログを読んで下さっている方は、 リーラスペースの活動にはあまり興味がないかもしれませんが、 私がこの本を紹介するのは、ただ、リーラスペースとの関係というだけではありません。
それは、この本を読んでいただければ感じてもらえると思います。
リーラスペースでは奇跡のコースが話題になったことはないのですが、 私のなかでは、ゲリー、五井先生、ホ・オポノポノ、コース、空海、ブッダというのは、 共通の教えや私の伝えたいことをみることができます。
そして『恩寵~シリーズ』を読むかぎりでは、 フーマンの教えもそれにつながるように感じます。
特に、この完結編は素晴らしいです。
清貴氏との対話で語られるフーマンの教え、真理は、 氏の探求の葛藤や体験によって、さらに生き生きと描き出されています。
それは清貴氏の人としての葛藤を通じて、 コースや他の教えでは伝えられない部分... 自我と真の自己の関係がリアルにみえてくるからです。
そういった意味でも、この本を紹介できることは二重の喜びに感じます。
もともと、清貴氏もパートナーのYさんも、 他のスタッフも、ほぼOSHOのサニヤシンで、 フーマンにもアジズにも会っていない私は、 もちろん、仲間として大事にしてもらっていますが、 始めのころは場違いというか部外者的な気持ちになったものです。
それでも、何だかんだ6年ものお付き合いが続き、 リーラスペースの活動を手伝うことになったのは、 聖霊に導かれ、私は私の道の途中で、 やはり出会うべき人たちと出会って、 為すべきことを為したのだなぁ...と、この本を読んで感じます。
さて、この『恩寵の扉が開くまで 完結編~フーマンを超えて』は、 リーラスペースのHPからメールで購入することができます。
修善寺でのリトリートのほか、 東京では瞑想会の定期的におこなわれていますので、 興味のある方はチェックしてみて下さい。
リトリートその後と恩寵の扉が開くまで・完結編を読んで
恩寵の扉を開くまで 完結編 出版おめでとうございます。 サイン入りの本をさっそく読ませてもらいました。 ~フーマンを超えて~という副題がキヨタカさんが真実への旅の末至った地点の本質を豊かに物語っていますね!
本の感想の前に、11月に参加させてもらったリトリートとその後の出来事について書かせてください。 今回のリトリートはいつもに増してハートと親密につながることができました。 特にダイナミックのときに赤ん坊の私が母に抱かれて、ハートでつながっている感覚が鮮明によみがえってきました。
キヨタカさんのリードや質疑に対する答えもハートからのものでしたし、真実を分かち合うことで喜びにあふれているキヨタカさんから発散されるエネルギーが心地よかったです。
後泊の際に、「三蔵法師のように命をかけてインドから持ち帰った経典はヴェーダと何か関係があるのか?」というへんてこな質問をしたりもしました。 それは私がいまヴェーダを習っているからそんな質問をしたのだと思います。
数日後、パソコンでユーチューブを見ているとダライラマの写真があったのでクリックすると何とも言えない美しい音楽が再生されました。 (http://www.youtube.com/watch?v=-c9-XaA2f00&feature=fvw) 調べてみるとIMEE OOI(イミーウーイ)という女性が歌っていることがわかりました。さらに他のサイトで他の彼女が歌う歌を発見して、再生すると・・・ (http://www.youtube.com/watch?v=P2D8epuXla8&feature=player_embedded) 美しい音楽にしばらく聞き惚れていると、突然、奥から嗚咽がこみ上げてきて、涙があふれてきて・・・初めは何が起こったのか理解できませんでしたが、すぐに、KIRAKUの会の時にフーマンの声を聞いた時の体験と同じだ!と感じました。 懐かしさと喜びのあまり魂が震えているのです。
この音楽の正体を調べてみると・・何と般若心経の原典に現代的なアレンジを加えて奏でられた音楽だということがわかりました。
つまりサンスクリット語で歌われているんです。当たり前ですがヴェーダもサンスクリット語。よく聞くと、今ヴェーダで習っている時使う単語と同じものがたくさん使われているんです。
般若心経は仏教のものですが、根源はヒンドゥイズム的な要素とつながっているんだ!ということがわかりました。
それを証明するように般若心経の英訳は「HEART SUTRA」。般若心経の「心」はサンスクリット語の「フリダヤ」を訳したもので、「フリダヤはフリ(宝物庫)+ダヤ(慈悲)=慈愛の宝物庫です」だそうです! まさにすべての根源はハートなんですね。
般若心経に対する知識がほとんどなかったので、ネットで夢中になってその内容を調べてみてまた驚きました。 現在使われている般若心経は玄奘三蔵訳のものが主流であること。
内容にはストーリーがあって、深い瞑想状態ですべてを理解したアヴァローキテーシュワラ(観自在菩薩)がブッダのお弟子さんでもあるシャリープトラ(舎利子)の質問に答えていくというものなんですね。アヴァローキテーシュワラ:うんだからねシャリープトラよ・・・と真理を語っていく構成(なんだか、フーマンとキヨタカさんみたい・・と可笑しくなってしまいました)は、私には、「THIS」の慈悲がアヴァローキテーシュワラとシャリープトラの関係性を通じ全人類にほとばしっているように感じました。仏教ってこんなにハートフルだったんですね。 新しい発見でした。
さて、完結編で私が一番好きな個所はジョンとフーマンとキヨタカさんがシンクロするところです。
ジョンの目からの一筋のしずくは涙でもあり、甘露(アムリタ)でもあったのかもしれませんね。 それにしても、なんて「THIS」は慈悲深いのでしょうか! そして「光を感じたらドアの向こう側に行こうとせず、こちら側にとどまりドアの向こう側にあるものと共鳴(Resonance)した状態でただ在りなさい」というくだりは私にとっても貴重なサジェスチョンです。
ハートのプレゼンスを失わないように、ドアの向こう側にあるものに明け渡すには、ハートの喜びを分かち合うことがシンプルなやり方だと思います。 私に与えられた環境の中で、それを実践していければと。その道は、般若心経の最後の章にある「ギャーテー ギャーテー パラギャーテー パラサンギャーテー ボーディソワカー」につながっているのだと思います。
キヨタカさん、ヨガビジャさん、素晴らしい本ありがとう。 そして恩寵の扉を開くまで完結おめでとうございます!